2009年7月7日 読売新聞東京本社 朝刊
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社会で生きていく力を身につけてもらうため、独自の授業を行う学校が増えている。

17人の中学3年生が、教室でコーヒーの作付けを巡って交渉していた。「慎重にやりたいから2区画というのは譲れない」「男だったら決断して全部コーヒーにしようよ」

6月23日、広島市佐伯区の鶴学園広島なぎさ中学校で行われた「グローバル・ラーニング」の授業。生徒たちは、コーヒーを売買する多国籍企業の社員と生産農家という役割に分かれ、4年間でいかに多くの収益を上げるかを競っていた。

多国籍企業の社員は、多くの農地を穀物栽培からコーヒー畑に転換させないと解雇されてしまう。農家は子どもを学校に行かせるための資金が欲しい。コーヒーは収益率の高さが魅力だが、市場価格の変動がリスクとなる--。こうした設定で、生徒たちは自分の利益を得るために知恵を絞る。

約500ドルの黒字を確保し、最後の年にすべてをコーヒー栽培に転換したところ、市場が暴落して借金生活になってしまった農家役の男子生徒。授業の最後に、「もうかるからと企業に押し切られた。自分の意思を持つことが必要だと思った」と発表した。「自分の利益と相手の利益を考えるのは難しかった」と話す女子生徒もいた。

授業を行った野中春樹教諭(56)は、「企業や農家という立場になることで、社会と自分との関係や、他人との関係の作り方を学ぶことができたはず」と説明する。

中高一貫の同中学校は1994年、社会人としての基本的な素養を育むシチズンシップ教育を行うため、「人間科」という教科を創設した。グローバル・ラーニングのほか、「人間」(中学1年〜高校3年)、「グローバル・シティズン」(高校1年)、「国際理解」(高校3年)を必修化。責任、豊かさ、勤労観など16テーマについて、ゲームや討論、外部講師の講演などを通じて6年間で学ぶ。

97年から授業作りに参加している野中教諭は、自分自身を肯定的に評価する自己理解、コミュニケーションにより人間関係を築く能力、社会の一員であるという実感--の3点が重要だと強調。「本当に理解し、自分自身の問題として意識するには、体験して考えさせることだ」と話す。

高校の「人間」の授業では、自宅出産を手がける助産師や終末医療に携わる医師を招いて話を聞いたり、実際に緩和ケア病棟を訪問したりすることで、生と死について考えるきっかけ作りにしている。

課題は時間数の確保だ。受験勉強に直接必要な内容ではなく、逆に受験科目の授業時間数が減るため、手放しで歓迎されるわけではない。

公立校でもシチズンシップ教育を試みる学校が目立つ。

品川区は2006年度から、道徳と総合的な学習、特別活動の時間を活用し、区立の小中学校すべてに「市民科」の時間を作った。神奈川県教委は07年度から、シチズンシップ教育実践研究校に県立高校8校を指定して、現代社会や政治経済など既存の授業の中での充実を図っている。

松沢成文・同県知事は6月9日の定例記者会見で、シチズンシップ教育をさらに広げるため、全県立高校で来年夏の参院選に合わせて模擬投票を行い、11年度には法教育も全校に導入する意向を表明した。

一方で、授業の進め方に苦慮している学校もある。

小中一貫校の熊本市立富合小学校・中学校は、構造改革特区制度を利用して、04年に新科目「生き方創造科」を創設した。水俣病の現地学習を実施したり、先進的な性教育を試みたりしたが、「シチズンシップ教育ならではの内容、方法まで高まっていない」と、同校関係者は打ち明ける。

生みの苦しみが続いている。(塩見尚之、写真も)

◆具体的手法 確立には時間

シチズンシップ教育が注目される背景には、経済成長により国民が物質的な豊かさを獲得し、価値観が多様化したことがある。この結果、進路の選択肢が増える一方で、ボランティア活動などで精神的な豊かさを求めることも一般化し、社会にかかわる力がより求められるようになった。

こうした力の多くは、かつては企業内教育の一環として育成されてきたが、長引く景気の低迷で、今や企業にはゆとりがない。経済同友会は今年2月、18歳までに社会人としての基礎を身につけるよう学校教育に求める提言を発表した。

とはいえ、具体的な手法の確立には時間がかかりそうだ。教員養成大学などではカリキュラム作成に向け、付属校で試験的な授業を行っている段階。文部科学省の特例校制度を活用し、独自の教科を作っている例もあるが、その多くが手探りを続けている。

「市民力」をキーワードに個人と社会をつなぐ教育の試行錯誤は、今後も続きそうだ。